杜の都のSF研日記(アーカイブ)

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国際会議SSDMにて瀬名秀明氏の講演 (久しぶりだな銀だよ、この野郎

 先日、仙台国際ホテルで行われた学会にて何故か瀬名氏が講演を行っていたので聴講してきた。
で、さすがに自分以外のSF研に学会にまで押し掛けるやつは居なかったろう、と思い簡単なレビューを。


 最初は、仙台という理由からか、東北大学に招聘されたときの話から。


  東北大学「うちの大学に特任教授として来てくれませんか?」
  瀬名氏 「でも、自分も忙しいですし・・・」
  東 「じゃあ、授業はしてもしなくてもいいですから!」
  瀬 「わかりました、しません。あぁ、でもなぁ・・・」
  東 「なら、会議にもでなくていいですから!」
  瀬 「では、それもでないということで」


という紆余曲折があったらしい。まぁ、こんなのは知ってる人は知ってるんだろう。
真面目な話としては。
瀬名氏曰く、「多くの学生、教師と話し、それを小説にして、100年後の学生の新たな『鉄腕アトム』を生み出してほしい」という要望に心を動かされたためらしい。この話は、以前は東北大学のHPに掲載されていたらしいのだけれども、瀬名氏が東北大学を既に退任しているため、今では見ることはできないです、残念ながら。



 かつて、「理系はシェークスピアが読めないが、文系は熱力学の法則がわからない」と言った作家が居た。
この台詞を瀬名氏は、研究科であり小説家でもあったこの作者は本来、「なぜ両方をやらないのか?」という意味をこの言葉に込めたのではなかったか、と分析している。
SFの祖とも言えるH.G.ウェルズは透明人間やタイムマシンなどのSF作品を多く残したが、晩年はノンフィクションに重きを置くようになり国際連盟を造るきっかけとまでなった。そんなウェルズのノンフィクションは読んでみるとあまり面白くもない。一方、タイムマシンなどの作品は現代でもリメイクされ続けている名作である。この差がフィクションとノンフィクションの差ではないだろうか。
つまり、フィクションとは「いまの時代に働きかけるもの」であり、ノンフィクションとは100年後の読者へ伝えるメッセージ」なのだと。



 で、こっから瀬名さんの物語を作るきっかけの話へと移る。以前、双葉社から空を飛ぶ小説を書いてくれと頼まれた。
  双葉社      → ルパン?世の漫画をやってるな!
  ルパン三世    → ルパンと言えばカリオストロの城だ!
  カリオストロの城 → 宮崎駿監督だ!
  宮崎監督     → そういや、紅の豚ってのがあったな!
  紅の豚      → あれって、飛行機の話だよな!
  よし、アルセーヌ・ルパンが飛行機で飛ぶ小説にしよう
という流れで、現在小説を書いているらしい。だが、この『空を飛ぶ』という描写が難しい。自分の作品に納得が行かず周りの人間に相談したところ、ある先生から、実際空を飛んでみるべきだよ、という返事が来たらしい。
で、飛行機免許を取るまで、そして取ってからの飛行のなかで、
 『飛行機は一個の機械には違いない。しかし、なんという分析の道具だろう』
 『飛行機と共に、私たちは直線を知った』
などという言葉を実感したらしい。
まぁ、この辺りの話に興味を持った人は

大空の夢と大地の旅 ぼくは空の小説家

大空の夢と大地の旅 ぼくは空の小説家

この辺りを参照のこと。あまり詳しく語って営業妨害で訴えられてもいやなので。
あ、あと喜界島で皆既日食見た話もしてました。



 で、次の話が、『生命』について


「いったい生命を研究できるものであろうか? 科学の中で、生命学だけが自分の本来の役割を定義できていない」


例としてコミュニケーションが挙げられる。
『情報』はシャノンが、『知能』はチューリングが定義した。そのため、この2つには研究が行われている。一方、『コミュニケーション』というものは前の2つに劣らず科学に深く関わりのある分野のはずであるが、いまだ誰も定義できていないため、学問として成立していない。
だが、生命もまた十分な定義ができていないにも関わらず、既に学問の分野として成立している。
生命とは何かを考えたとき、物質帝国 → ○○○ → 生命帝国 の○○○の中に何が入るかによって『生命』の意味もかわる。
例えば、有名なある本(以前ちゃあしうが紹介してたかな?)ではそこにエントロピー、エネルギーを入れていたが、この他にも様々な定義が可能になるのだろう。このような定義が曖昧なものが学問なのだろうか?

このような疑問から、話は瀬名氏の父が行っているインフルエンザの感染方に移っていった。
その辺はまた別の機会に。



 ま、この辺まではどっかで一度はした話なんでしょう。


ここからは、聴講者からの瀬名氏への質問。
「現在、科学の進歩が人の幸福につながらなくなっている。
これは、サイエンスがもともとは哲学であったのに対して、文明の爆発的な増大に伴って今は金に関わるものでしかなくなってしまったからだろう。
例えば、シリコンを用いて1000年は保存できるもの、などを作る試みもある。
では、この時代から後世に残るものとは何なのだと思いますか?」
(結構適当。途中が抜けている恐れあり・・・)


それに対して瀬名氏は、
幼年期の終わりの元にもなった「最初にして最後の人類」という小説があります。これは、架空の歴史を綴ったもので、人が生まれてから滅びるまでを何度も繰り返している様子を綴ったものです。
シリコンは100年、1000年なら残るかもしれません。ですが、数億年も残ることはないでしょう。
まして、後世での「価値のある」ものは、いまとは考えが違うでしょう。
受け継がれる情報とは常に臨機応変に変化を続けるものである『生命』に関するものになっていくのではないでしょうか。
半導体などもこれからは次第にそちらへよっていく、というのも面白いのでは?


というお答えだった。
自分はコレを聞いたとき、結構面白い答えだと感じた訳だが。他の皆さんはどうだろう?


ところで、これを発表した学会はSSDMといいまして、Solid State Devices and Materialsというのが正式名称です。
わかりますね? 多分、聞いてた人の何割かは俺たちは固体物理やだぞ。喧嘩売ってんのか? と思ったことは想像に難くありません(笑)
いや、そこまで心が狭くはないと思いますが。