杜の都のSF研日記(アーカイブ)

旧「杜の都のSF研日記」http://d.hatena.ne.jp/sftonnpei/ 内容を保管しております

地震体験記

地震の被害規模が判明するにつれ、これが平成最大どころかここ100年ほどで最大の大災害であることが明らかになってきている昨今。今回の東北関東大震災東北地方太平洋沖地震)の際、自分がどういう目に会ったか、そしてそこからどのような反省点が出てくるのかを記録する。これはあくまで個人の記録であり、これが全ての事象に当てはまるわけではないことを注記しておく。

地震発生から脱出までの記録

3月11日金曜日。自分は東北大学理科学部にほど近い成田山近くの荒巻青葉地区にいた。ここは「青葉山の上」でありながら学生が住む数少ない地区の一つであり、理学部にも工学部にもさほど坂を登らず歩いて行けるというメリットがある。しかし、大学生協が閉まる週末休日には山を降りるか備蓄した物資に頼らねばならない


自分は春からの新生活準備のため部屋を片付けていた。部屋の中は中途半端な段ボールがいくつも積み上がり、中身はゲームに本に立体形にと千差万別。おかげで足の踏み場はほんの少しだし、ベッドの上にもあるので寝るのも一苦労。その日は実家にはいくつか保管してほしい物資を送るため宅配業者を呼び運び出してもらった。さらに引っ越し先で要らない家電を引き取ってもらうことにし、その場で見積もり運び出しを行ってもらった。なんでこんなもの買ってしまったんだろうと未だに後悔しているスライド本棚をドライバーで分解しながら実家の親に連絡を入れ、そういや後輩が「学会発表の練習するから来てね」と言っていたから、ひととおり物資をバラし終えたら久々に研究室に行ってみるか、などと思っていた。


そのとき初期微動が来た。2週ほど前から震度4〜5クラスの地震が続いていたので「またかよ」程度しか考えず、デスクトップパソコンの乗った机の方に向き直ったその瞬間、第1波の本震が到達。自分の家は「山の上の三階建ての二階」なのでかなり揺れ始め、とりあえずPC関連だけでも守ろうかと押さえようとした。このときはなんとか椅子の上でバランスを取っていた。そんなことが2分ほど続いたところで第2の本震が到達。揺れはついにこちらの想定とか力の限界とかを超え、バランスを取れなくなった。膝立ちでパソコンとバックアップHDDを押さえながらも心の中では「これ、大分まずいんじゃ」という不安がよぎる。それがついに4分ぐらいたったところでついに揺れは頂点に達した。あまりに強く抑えたものだからミニタワーケースの側面が外れてしまった。それでも動き続けるマシンに危機感を覚えた自分はコンセントを引っこ抜いてPCを黙らせて自分の命の心配を始める。目の前ではしばらく前から使ってないプリンタ複合機が宙を舞い、まだ本棚の中にあった全ての本が散乱しはじめる。段ボールは中身入りのまま床に落ち、換気のために開けていた窓がロックが壊れたことによってはずれ始めた。そしてついに停電。一瞬、部屋が平行四辺形的な変形をしたように感じた。自分のアパートは崖の上にあり、冗談でよく転がり落ちたりしないか親と言いあったものだが、この揺れだともういつ現実になってもおかしくない。部屋にペチャっと潰されるか、崖を転がって土砂に埋まるか。もうそういった最悪のシーンしか頭に浮かばなかった。自分はもう理性も何もかも失って「もういいだろ!止まれよ!」と絶叫していた。


その後、やっと揺れは収まった。しかし足もとは散乱した本、書類、段ボールでさらに足の踏み場が無くなりうまく歩けなかった。スリッパ履きだったのが幸いして変なものは踏まなかったものの、まずは一番近い出口、外れた窓の外へ。目の前にある家の壁から破片がぱらぱらと散っていた。近所に人が顔を出し、皆ですさまじさを語り合っている。そして、大学の方向からは何かのアナウンス。


とりあえず連絡だけでもと思い携帯を探すが散乱状態の中でなかなか見つけられない。机の上からベッドの上に移動していたアドエスをひっつかんですぐに実家に電話。ウィルコムは直後だったためかスムーズにつながり、とりあえずの無事を報告…としていたところで電波状態により切れてしまい繋がらなくなった*1。生きていることを知らせられただけでもよしだが、問題は物だらけのこの空間から脱出しなくてはならない。


一番の障害になったのが「緊急時、人間は一つのことしか考えられない」ということ。まず懐中電灯を探し始めたのだがそのとき無造作に携帯を置いたのが災いし、携帯が今度は見つからなくなる。携帯を見つけると、今度は懐中電灯が無い。懐中電灯を再び見つけると、今度は携帯が…という三文芝居を繰り返す羽目になった。余震が来る中5分近くかかって懐中電灯・ダウンジャケット・携帯、そして中のふとんが押し出されている衣装ダンスから転がり出た非常持ち出し袋を持ってやっとの思いで外に出た。


外には当時同じアパートにいた住人が4〜5人。皆着の身着のままって感じで携帯ぐらいしか持っていない。自分はここぞとばかりにラジオ・・・と思ったが持ち出し袋のラジオは電池が劣化防止のためか入っておらず、余震の合間を縫って部屋の中に再侵入。デジカメのエネループをこじ開けて手に入れる。ラジオでは津波警報が出ており、外からは緊急車両のサイレンの音。近所の人も皆外で不安げに様子を見守っていた。


15〜30分ほど近所の人としゃべったり再び様子を見に行ったりを繰り返したところで「大学の方がいろいろ充実してそうじゃ?」と思い、持ち出し袋を抱えて理学部方向へ。見た目には大きなダメージはないものの、ヘルメット姿の生徒が多数外へ出ているのをしり目に工学部へ。しかし、皆避難して外にいたらしくちょうど戻り始めたころだった。そこで研究室に当時いた教授とその他のメンバーと遭遇。一緒に研究室へ入る。


中は地獄だった。半年ごとに点検される書籍棚にはるロープがほとんど役に立たず周り中に散らばり、自分の机の上のiMacは落下してガラスが割れている。計算機室のサーバー転用計算機も落下したもの・倒れたものがいくつかあり無停電電源がビープ音を鳴らしていた。工学部も電源が落ちており、暗くなってきたので長居は無用と解散することに。自分の机の近くに会った自分用ヘルメットをもらって帰る。車で来たメンバーはおらず、おのおのが歩いて工学部機械知能棟を立ち去ろうとする中を白い雪が舞っていた。最悪の事態になったなぁと実感した。また、大学生協の非常営業が理学部方面ですでに終わっているのを見る。公衆電話でもう一回家と連絡。無事・大学メンバと接触・避難所に行ってみると連絡する。


部屋に戻ってしらべたが暗くなり始めたことと整理内容を忘れたため携帯の非常電源がわからず、携帯の予備バッテリの発見を断念。とりあえず有るものをかついで山の下の避難所となるコミュニティセンター、そして川内キャンパスとそこにある我らが東北大学旧サークル棟:SF推理研部室の様子を見に行くことにする。ドアにはメモ用紙に名前と連絡先、そして行き先をガムテで張り付けておいた。


コミュニティセンターは既に非常体制に移行しており、テントを広げて受け入れ準備を行っていた。既に体育館に人が入り始めているようだった。一方、川内キャンパスのサークル部室にも既にSF推理研部員が5〜6人集合済み。なんでも詰まっていなかった本が散乱しただけで棚は倒れなかったらしい。どれだけギッチリ詰まってるんだウチの部室。続々と部員が乗り込んでくる中、auの通信はまったく無理と言う情報を聞く。部室にあったお菓子やお土産を分け合って食べて少し落ち着く。またある部員の手回しラジオが貴重な情報源となる。


部室の人間がそれぞれ自宅から持ち寄ったものでの自炊体制・買い出しできるのかの偵察・一時帰宅に分かれる中、自分は近所の部員とともにコミュニティセンターに部員が入れるかを確認するため青葉山方向に戻る。時刻は既に5時を回り、暗くなり始めるが青葉山を降りようとする車の列は大渋滞で途切れることがない。そして、避難所は既に容量オーバーの様相を見せ始める。白い息を吐きながら外で様子をうかがいながら待つことにする。停電のため暗くなり始めると寒さをきつく感じるようになる。
当時の携帯電話会社別通信状況雑感

自宅の様子を見に行った部員が帰ってきたあたりでアナウンス「ここは満杯近い。仙台市立立町小学校*4に余裕があるとのことなので体力がある方は移動してもらえるとありがたい」 このままここで場所や物資をもらえる可能性が低いと判断したため、2人でコミュニティセンター→サークル部室→広瀬川を渡って立町小学校へ移動することに。青葉山は普段は大学施設と夜通し防犯灯が光るアパートのため非常に明るく見えるのだが、停電のため「登ることを拒む魔の山」のようなシルエットに見える。そして、外で白い息を吐きながら待っている我々の頭上を、いつもは光害で見えないたくさんの星が見下ろしていた。


小学校前の交差点は非常用発電機により信号が動いていたが、それ以外は完全に沈黙。八木山のほうはと見ればこちらも停電しており明りは少しも見えず、代わりに渋滞の長い列が赤く列を作っていた。
美術館近くでは事故車があったが、軽い衝突だった+こういう事態なので、と交番の人も軽い処理ですませている。


立町小学校前では、当然のように閉まったコンビニ前で騒ぐ若者が数人。ちょっとお近づきになれない雰囲気だったので近寄らず。
ヘリの音とサイレンの音がたまに響く中で小学校に到着するも真っ暗で入口も窓口も分からない。近づくと中へと誘導されたが、当然のようにこちらも真っ暗。ろうそくの明かりがぽつぽつ設置されていた。


小学校では既に体育館が埋まったのか2・3階へと案内され、そこで腰を下ろすことに。しばらくラジオを聞きながらいると安否確認メールを受信するもアンテナ表示が全く立たずうまく送り返せなかった。しばし尋ね人やその感動の再会シーンを横目に寝ようとしたがうまくいかず、結局空腹に負けて乾パンとサクマ式ドロップスを開ける。しかし、水やお茶のたぐいがないのが辛かった。


寝るために毛布を取りに行くべきか迷ったが、この様子だと無いかもと判断し、銀色に光る断熱ブランケットをひろげることにする。1枚は隣の部員に渡した。だが、これは全然ダメで寒さを防げずキツかった。余震で閉じ込められるのを恐れて+開け閉めがうるさいことからドアはしっかりしまっていないので、隙間風が床下からすーっと入ってくる。椅子や下に敷くものが全員分ないので、床に直接座るのを避けようとしてブランケットの1/3を占有されてしまう。そして脚したから入ってくる隙間風を防ごうと体育座りをすると、最近痛めた膝がズキズキと痛む。おかげで「かぶって寝ようとする」→「痛みか寒さで起きる」→「ブランケットのはおりかたを調整し直す」の無限ループ。しかも余震付き。結局連続ではうまく寝られなかった。


3月12日土曜日。翌朝5時ごろ、耐えられなくなったせいかか明るくなったせいか体を起こしトイレへ。避難人数が多いせいで水道が復旧していないことの影響が既に出始めていた。夜入った段階で大は避けてくれとは言われていたが、まさか小だけでここまでとは。


アンテナが立つ場所を見つけて安否確認メールに応じた後、ちょっと周囲を散策。カーショップのガラスが大きく割れてビニールシートがかぶせられていた。その後夜中付いていたらしい焚き火ですこしだけ暖をとる。足りない燃料は椅子を壊して調達しようとしていた。


朝のラジオのニュースは東北の地震よりも長野の震度6のほう。さらに緊急地震速報が東海地方に出たのを聞いて絶望する*5。「日本沈没」がフィクションじゃなくなったかと思った


翌朝7時から炊き出しが開始。立町小学校で給食用に残されていた物資を使いわかめごはんを作って提供するというものだった。そこで始めて小学校の避難者がどれくらいか知ることに。3〜4人、50mくらいの列が3重4重にとぐろを巻いていた。足りない分は備蓄のビスケットに代わるとのことだった。


朝8〜9時で部室と自分の部屋にそれぞれ戻り、状況を少しだけ整理。通りがかったコンビニが臨時営業しており、ここでウェットティッシュとお茶2本を買いやっと水分にありつく。サークル部室に戻る途中、東京消防庁のレスキュー隊の応援が到着するのを目撃する。


戻った自宅の状況を整理。台所では戸棚の中身がほとんど飛び出していたが、ありがたいことにほぼ全てが流しの中にスッポリ入っていたため漏れ出た損害はスプレー一本のみ。ただしそのすぐそばに国書の貴重本があり間一髪だったことに胸をなでおろす。でも、散らばった本をいくら棚に戻してもまた余震で散乱しそうと思うと気が滅入った。携帯の外部バッテリーなどが入った袋をやっと発見。乾電池などとともに部室へ。また、昨夜の反省から、尻の下に引ける厚めの断熱マットと部屋の中で一番ゴツイ「極寒コート」なるものを持ちだしていくことにした。使っていなかったカセットガス2本・保存がきく麺類缶詰なども部室へ持っていく


12日は全体に晴れていて温度も上がり外ですごしやすい1日だった。避難所では知っている人間がいないし、暗いのでサークル部室の外でマットを敷いて半日を過ごす。買い出し部隊の偵察情報をもとに自転車で行動し、街中の状況を探る。同じようにサークル棟で生活しているサークルがたくさんあった。コミュニティセンターでは給水活動をしていたのかタンクを引きずっていく姿が。昼飯はサークル部室でもらったお湯でアルファ米。コンビニ・ドラッグストアが行列だらけだったが、近所の小型スーパーが穴場で空いていた。ただし生ものが多く調理必須。


夕方、「青葉区役所で携帯を充電可能」と聞いて自転車で移動。多くの人が情報を聞きながら待っていた。自然と「1人15分」ルールが成立していたが、「充電しながらメールをする不届き物がいる」と声を荒げている人がいた。区役所で福島の状況を知ることに。サークル部室にそういえばサージカルマスクとかちゃんとあったよな、と確認したくなる。


国分町では夕方前に電力が回復。自販機で温かいものをと思いコーヒーを買ったが電力回復直後なのでぬるかった。部屋に戻ると真っ暗。自宅の冷や飯をふりかけご飯でかきこむ。
夕方までの携帯電話通信状況

どこも通信規制が厳しく3〜5回に1回程度。電力を食うメールチェックも楽じゃない。通信可能ならとぎれとぎれでもメール受信体制に入るので電池消耗、という問題に悩む。節電のため通信できるところ以外では切っておく。


夜7時ごろ部室へ戻り、毛布も部屋からそろえたがいつ避難所に戻るか考えていると、突如川内地区の電力が復帰。大喜びで自販機のジュースと若干の水を買って乾杯し、さて、では皆にこの事実をメールしようと思ったところでふたたび停電。無念。ただしその間にテレビを初めて見ることができ、津波の恐るべき実態を知ることに。有る意味それまで見なくてよかった*6


その後、半日以上かけて高速を日本海周りで走ってきた両親に拾われて実家に帰還することになった。

今回の反省点

あくまで青葉区は「揺れによる部屋の中の散乱」「ライフラインの寸断」が問題となった。そこからの反省点。

カセットコンロ一つぐらいはあってもいいかも。
「避難所ぐらい電気があるはず」なんて考えない方がいい。

  • アナログ大事

電池式/手回し式のラジオは長持ちする。やはり一つは手に入れてどこかにおいておきたい。電池のメンテもぬかりなく。

基本だが大事

  • 裏取り大事 ソース大切。

伝聞だけでの行動はなるべく避ける。

  • 自転車便利(場合による)

交通がマヒして青葉区では自転車が活躍していた。でも路面状態には注意がいる。自転車は横方向に段差を超える能力が低い。タイヤの半分ぐらいの高さの段差でも引っかかって転倒する場合があるので、道がボコボコしている場合は注意が必要。

  • 防寒対策

避難所で毛布を手に入れられる保証はない。かといって、危険な家に戻るのも考えものなのでここは難しいところ。もし「十分安全が確保でき」、かつ「津波などの2次災害のおそれがない」なら一番厚い上着か毛布を確保してから避難したい。でないとちょっと寝るのは厳しい
もちろん余震がある場合はこのかぎりではない。
また、避難所では土足OKになることが多いが、一方で床にそのまま座ることになる可能性がある。これは体温を奪われやすいので絶対に避けるべき。毛布をしくともう1枚必要/ただでさえ狭い毛布を下に占有されるので、椅子・ビニールシート・新聞紙を数回折り曲げたものでもいいから何か敷きたい。2枚以上重なったものがいい。

  • 持ち物チェック・確認

必要なものは手の届く場所に、手に入れたら、ポケットにすぐさま突っ込む。

  • 普段の生活で注意したいこと(雑)
    • 散逸をとにかく防ぎたい。本棚は大きく積み上げない。それなら段ボールに入れて2〜3段まで積むだけの方がマシ。
    • スライド本棚は買うな
    • デスクトップマシンは低いところ、バックアップハードディスクは下敷きになったりすぐに落下しないところへ。
    • 足元注意。面倒でもスリッパばきが安全。避難時はさらに丈夫な靴で。
    • プラモなどのディスプレイはふだんは倒しておいた方が吉。倒れた衝撃で割れることも多いし。壊れた方が悲しいはず。あまり高い所に置いておき、散乱して踏みつけると自分も悲惨なので一人暮らしならあまり高いところにディスプレイしない方がいいだろう
  • 通信

今回はケーブルをやられたau(KDDI)の復旧に時間がかかったが、同じことはどこでも起こりうるのではないかと思うのでどこの通信会社がいいとか判断は難しい。ただ、地震直後に限って言えばウィルコムがすんなり繋がった。すぐに切られたけど。
公衆電話は強い。深夜になっても安否のための電話の列が絶えなかった。

  • 避難所

川内・青葉山地区は学生以外の年齢構成は極端なので、学生さんはなるべく別の場所に移動というスタンス。やむをえまい。ただ、1〜2日目に即物資や水は都市部でも難しい。ここは店を開けてくれるところを探すしかない。

あると望ましいもの

非常持ち出し袋や避難の際ポケットにねじ込みたいもの。もちろん、避難が遅れて2次被害、ではダメなので絶対ないとダメ ということはない。青葉区で自分が2次被害に遭わなかったのは、あくまで運が良かったからである。 本来ならすぐに自宅に戻って物資調達は推奨されないと思われる。

  • マジックペン

手首に書いて持ち物チェック、ドアに行き先を書く、持ち物に名前を書く、そして「万が一の万が一の場合」には自分に名前と連絡先を書き込んでおく等使い道は多い

  • 懐中電灯

ポケットサイズとしっかりした奴2種とか、複数あると便利 というかよく失くしそう/壊しそうになるので。50cm落っことしたぐらいで壊れる奴は避けたい。
個人的に最近お勧めなのは100円ショップで売っているLED式小型ライト「ランチャーライト」。単4電池を3本も使うサイズの割には大食らいで某マグライトのパk…もとい小型版のようなものだが手のひらサイズで意外と明るい。バッグにいつも忍ばせておいても苦にならず、もしものとき役に立つ。

  • 携帯ラジオ

手回し充電か乾電池のもの スピーカーつき・携帯充電機能だとなおいい。

  • 携帯電話関連用品
    • 外部バッテリー
    • 予備の充電器/急速充電器
    • 短めの延長コード(10〜20cm程度 100均で買える) もしくは延長分岐コード

最近はUSB汎用充電コードが100円ぐらい、乾電池を用いた急速充電器も1000円以下で手に入る。自分のにあわせて入れておくか、いつも持ち歩く。
今回の地震青葉区のあちこちで電力が通じる場所での公衆充電が行えたが、延長コンセントの分岐には限りがある。また充電器のACアダプタは場所を占有するため、10〜20cmのコード一本で一人分の充電スペースを確保できる可能性がある。トラブルも防げるかもしれない*7
また、近所の公衆電話の位置は1〜2個覚えておくといい。

  • 保存可能な水2〜3本

1人で暮らしているなら、支援物資が来るまでの2〜3日分が必要と思われる。今回は青葉区中心街の被害が少なくすぐに臨時営業をする命令により店が開いたが、どこでも臨時開店出来るとは限らない
臨時営業がある時のために小銭も少々いる。

水が無くてもしばらくはしのげる(あくまでしばらくは)

  • 断熱マット

最低1mm以上厚みがあるもの。寒いのに床に座るのは厳禁。

  • デオドラント/汗ふき

避難はいつも以上に歩き体力を使うので、気がつくと結構なことになる。自分は2日目早朝に自宅でささっと着替えたが、着替えを取りに行けない可能性も考えたい。

水が出ない状態で衛生状態を保たないと、ただでさえ水が足りない避難所で苦しむことになり迷惑もかかりかねない。
もちろん、アルコールでは消毒しきれないものもある*8が、気休み程度でも毎回手を清潔に保ちたい・

  • サージカルマスク

原発とは関係なく風邪予防も大事。

  • 使い捨てカイロ


こんなところか。


とにかく今回の事態で感じたこと。「最悪の事態、とは常に想定の上をいく。」だからこそ、その一段上の最悪に備えることが必要。注意と用意に過ぎたはないとみて備える必要があるだろう。

最後に

うまく口調を変更する日本語能力がないので一拍おいて。


東北大SF研OBの皆さん、いつぞやの支援物資(消毒ジェル等)が役に立ちました。ありがとうございました。
東北大SF推理研の皆さん、短い共同生活でしたがお世話になりました。ありがとうございました。
被災された皆さんにお見舞い申し上げます。一刻も早い東北・北関東の復興を願います。
負けるな伊達の国!でも無理はしないように!
(ちゃあしう)

*1:その後親に聞いたところによると、「地震でドアがががががががががが…」と通信がおかしくなって切れたらしく、ドアに閉じ込められたのかと思ったらしい

*2:当時KDDIの東北ケーブルが破断して広域で通信障害が発生していた。2日目に復旧

*3:地震直後はすんなり繋がったがその後は基地局の少なさからか、通信できるところとできないところの差が目立った

*4:土井晩翠の母校として有名

*5:このときは確か誤報か軽い余震で済んだと思われる。東海地方に連鎖せず。

*6:見ていたら絶望していたかもしれない。ラジオしかなかったので津波被害についてはよく分かっていなかった

*7:ただ、あんまり分岐が多い延長コードを持っていくと「おお、これはいい」と見ず知らずの人がブスブス差してしまい持って帰れなくなるかもしれない。そのときは皆のために協力した一市民ということで納得するしかないだろう。

*8:例:ノロウイルス 実際津波被害後の避難所のいくつかで水が足りなくて下痢性の中毒が発生しているとのこと。http://twitter.com/#!/pmdky/status/49796437512437760 一刻も早い水の支援を望む。